ゆるくおもう

仕事×自分 読書×自分 日常×自分

失敗しかしないのだから失敗することを恐れなくてもいいじゃない

#Fail

 

 

失敗しかしない。だからそんなに失敗することを怖がらなくてもいいんだよ。

 

自分がやったことないことって凄く怖い。それに失敗して恥ずかしい思いをしたり、そんなことも出来ないのかよって思われるのも嫌だよね。

 

でもね、よーく考えてみると人って失敗しかしないんだよ。

 

そんなわけないじゃない。成功する時もあるじゃない。それに、あの人は仕事もプライベートも何でも上手にこなして失敗していない。成功ばかりじゃないか。他人を見ていると、そう思うかもしれない。でも実際にその人が、今、目の前にあることで常に「これは成功だった。」と考えてると思う?

 

そんなことはないんだ。

 

例えば、仕事でうまくいった。それなりの成果を上げられた。

でも、もう少しなんとか出来たんじゃないだろうか?違うやり方をしていたら、もっとこうなっていたんじゃないか?もっと楽に出来たんじゃないか?もっと色々と意味を持たせることが出来たんじゃないか?

 

いっぱい出てくる。考えれば考えるほどいっぱい出てくる。

 

つまりどんなに出来るように見える人や、天才のような人でも失敗してるんだ。

ボクやキミと同じように、失敗の連続だったりするんだよ。

 

そう考えると、人間なにをしても失敗しかしないってこと。

100パーセント正解。それって存在しないんだよね。

 

当然プライドもあるし、格好悪い姿は晒したくないよね。僕も同じ。

でも、どうせ失敗しかしないんだから、やってみて色々と感じたり考えるきっかけをもらった方がお得じゃないかな。

 

だから怖がらなくていいんだ。

 

 

答えなんか見つけなくてもいいんだよ

Question Mark, Ipswich, 13 December 2012

 

 

答えはいらない。答えはない。何か答えや、正しい生き方のような正解なんてないんだよ。いくら考えても、次から次へと、これでよいのだろうか?となる。それでいいんだ。

 

なにか正解がほしい。なにかを支えてして生きていきたい。

この生き方でよいと思えるようなものを手に入れたい。

 

そんな思いって誰にでもあると思う。楽だもんね。

 

でも、そうではなくて、考え続ける。問い続ける。キリがないじゃないかと思う、その問いの中に身を起き続ける。実はそれが自分を生きるってことなんじゃないか。自分を見つめ、自分というものを大事に生きるってことなんじゃないだろうか。

 

私たちは、「これでよいのだろうか」という根本的な問いを発することができます。この問いは、私たちの自由を保障すると同時に、終わりのない問いかけの堂々巡りを引き起こします。そして、究極的には、今の「存在」そのものを疑問視する問いとなります。しかも、この問いを発することで、私たちは、「自分の本来」という問題に直面させられるのです。「これでよいのだろうか」という問いが持つ根本的性格は、この問いの怖さを思い知らせます。けれども、同時に、私たちは、この問いを立てるとき、自由な存在としての優位をどこかで感じています。現状に呑み込まれてしまってはいけないのだ、現状を変える力があるのだ、現状に甘んじてはいけないのだ、というように、私たちはこの問いを立てることで、自分の可能性と力を信じているのです。非常に苦しいなかで、「これでよいのだろうか」と自分自身に問いかける。そのとき、人は優位に立っている。ハイデガーのこの考えには、徹底的に問うという作業にたいする確信と、生きることへの強い意志が感じられます。私たちは、存在論というかたちで自分の存在を根本から問題にできるからこそ、存在するものとして優位に立っているのです。では、このときの優位とはなんでしょうか。問題に決着をつけることではない、とハイデガーは言います。そうではない、「途上にあること」を真に受けとめることだ。途上というのは、答えのない問いを立てることです。問いに答えを見つけることではなく、自分をオープンにしておくこと、可能であることを忘れないでおくことです。「途上にあること」を解放して、自分を開いたとき、「根本的な疑い」が生じる。なにか確定的なことがあり、正解が見つかるという態度を完全にすてるわけです。

 

 

 

 何か安心できるようなものが見つかるわけじゃない。

これだけやっておけばもう何も必要ないということでもない。

 

問い続ける。その中に居続ける。そこから逃げ出したくなることもあるけれど、また戻ってくる。どうせ答えなどないのだから。答えがないのだから問う。

 

安心というものは外にはないよ。光というものは外にはないよ。

大事なものはどこか遠くにあるものではないんだ。

 

 

光を求めて探していたけれど、光は「ここ」にあるということ。

 

遠くまで行かないと見つからないのかもしれないけど。

睡眠は長さと同じくらい寝る前と寝る時間が大事かもしれない。

Sophie sleeping

 

 

睡眠時間の長さと同じくらい、就寝前ってのがすごく大事。

 

ここ最近、心身ともに調子が悪くてインプットもアウトプットも、する気が起きなかった@htn8349です。こんばんは。

 

とにかく寝ることが得意なんです。精神的に負荷がかかったりすると、自然と眠くなったりするような。ふて寝なんて凄く得意。

 

そんなボクなんですけど、2週間前ほどに熱が40℃まで上がってしまうような風邪をひいたんです。そこから絶不調。身も心も調子が悪くなってしまったんですね。

 

風邪や熱そのものは病院で薬をもらい、安静にしていたら数日で治ったんですけど、精神的なものがなかなか戻らない。仕事も何となく。本を読む気も起こらない。なにかこうやる気がおきないんですね。そういう日が続くと、どんどん絶不調。

 

そういう時は必殺技

 

「寝る」

 

これしかないということで、早起きも少しおくらせて、寝まくった。

 

でも、元に戻らない。

 

で、昨日です。今朝と言った方がいいのかな。

 

 

やっと元にもどった。朝起きたら軽かった。いやーーーーな感じがしなかった。

何が違うのかと考えてみたら、「寝る前にやってること」と「布団に入る時間」が散ったんですね。

 

調子が悪いから沢山寝なきゃと思っていた時にやってたこと。

 

・寝る直前までPCで映画orゲーム

・24時前に布団に入ってバタッと寝る(ぐっすり寝れてるつもり)

・起きる時間を遅めていつもより長く寝ていた

 

起きたら軽くなった前の晩にしていたこと

・23時頃に布団に入る

・寝る前に画面みない

・寝る前に読書(紙の本)

 

うーん教科書通りだぜ。

 

寝る直前までPCやタブレットで画面と睨めっこって自分で感じているよりも、かなーり負荷がかかっているはず。ましてや、ゲームなんてもってのほか。

 

でも、ストレス発散しないとやってられないじゃないって思うよね。ボクも2週間ぐらい思った。煩わしいことを考えなくてすむから楽なんだよね。でも、それで逆に付加をかけて調子が悪くなっていくって悪循環なんだよ。

 

仕事で疲れて帰ってきて、そこからPCで映画やゲームなんてやってたら、そりゃ余計に疲れちゃいますよね。余計に疲れちゃってるから布団に入ってパタっと寝れる。

 

この余計に疲れてパタッと寝れるってのが勘違いのもと。

 

まるで麻薬やお酒と一緒。麻薬やお酒と一緒というか、悪循環に陥るような飲み方、遊び方と言った方がいいかも。

 

仕事から帰ってきて、ストレス発散のつもりでやってることで、逆にストレスためちゃってませんか?

 

寝る前の時間って大事。

そんな当たり前のことに気づかされた。

人と一緒に何かをするって実は楽しいんだよ

Basket weavers in Ongula

 

 

色んな人と一緒に何かをするってのは凄く嬉しいこと。

仕事でもそう。遊びでもそう。自分一人では出来ないことを一緒にやる。「やってあげる」でもなければ「やらせる」でもない。お互いにやる。それって本当はとってもとっても相当に楽しいことなんだ。

 

そんなこと言ったって、要領が悪かったり不器用な奴がいると効率悪くなるだけじゃない?てか、あんな奴いなければもっと上手くスムーズに事が進むのに。あんな奴邪魔じゃないか。正直、僕もそう思う時もある。

 

とっても恥ずかしいことなんだけど、みんなオレだったらいいのにって思ったりしたこともある。でも、それって「自分がやる」「自分だったらどうするか」「オレはこうしてみよう」「オレはこう思う」そういうのがないってこと。主体性がないってことだよね。

 

主体性がないっていうのはどういうことかっていうと、「消費者意識」とか「お客様的」とか「やってもらう前提」とか「そうなっているから」そんな感じ。

 

簡単に言うと

 

オレはやらないけど、なんでやってくれないんだよ!!

 

こういうこと。

 

それじゃー何も面白くないし、腹が立つばかり。自分が見えてないからね。

内心、本当は自分のことに薄々気づいてはいるんだけど、目を伏せてる感じかも。

 

例えば、外食じゃなくて料理を自分で作ってみることにした。

オレはこれが食べたいから、これとこれが必要で、こんな作り方をしなければならないなーとか色々考える。そして作ってみる。作ってみると上手く作れない。洗い物もしなければならない。

 

上手くできない自分だったり、とりこぼす自分だったりが見えてくる。

作ってもらった料理しか食べてないと、上手に料理できない自分てのにも出会えない。

 

それは自分にも出会えないし、他人にも出会えないってことなんだよ。

 

自分に会って、他人に会っていく。自分だけでは出来ないことを助けられながらやっていく。それは凄く嬉しいことなんだ。

 

なんでこんなこと言い出すかというと、ここ最近たまっていた仕事を後輩がごそっと進めていてくれたから。朝はどうせ進んでないんだろうなと憂鬱で憂鬱で仕方なかったし、期待せずにウジウジしながら会社にいったら、これとこれをやっておきましたって言うから、飛び上るほど嬉しかったのと同時に、オレがアホだったなーと。

 

案の定、蓋を開けてみるとグダグダな部分もあったのだけれど、それでも嬉しかった。出来る出来ないじゃないんだよ。

 

本当は誰かと一緒に働くってのは楽しいことなんだよね。

安っぽい答えなんか捨てちゃえばいいじゃない

Time to think

 

 

インスタントな答えに乗っかっても安心なんか出来ないよね。

色々な人の考えや、色々な人の姿を見て自分自身で考える。人の話に乗っかるだけじゃわからないよ。美味しい食べ物の写真を眺めていても、その食べ物の味も作りかたもわからないじゃない。

 

でも不安だよね。世の中はこうです。あなたはこうです。こうしておけばこうなります。そういう言葉って安心出来るような気もする。不安なら尚更だ。

 

でもさ、それでもやっぱり不安じゃない?嘘っぱちに乗っかってるような気がしない?だって嘘っぱちなんだよ。何でかって?自分の解答じゃないからなんだ。

 

問うことをやめているから。

 

敗戦後の危機と混迷と不安がただよう時代。「西洋の没落」が語られ、時代診断は陰鬱をきわめる。そこで、民衆の不安心理にたくみにとりいる無数の対処療法や、いかにも自信たっぷりに決定性を印象付ける<最終解答>が、「世界観」の体裁をとりながらあふれ出ていた。K・ブリはこうした時代兆候を、「変装した宗教」となづけている。『存在と時間』発刊の二年前のことである(でもなんだか現代日本と似ている)。たとえば、無意識と深層心理学、民族自決、「聖なるもの」(R・オットー)、あるいはオカルティズムや菜食主義など。それなりに魅力的だが、安直な最終解答や治療法が乱舞する。空手形をばんばん発行するわけだ。それを読めば、それをすれば、すぐにその身のままで最終解脱にいたる。永遠の平安がえられる。そんな風潮が蔓延していた。ほんとうの宗教性は、世界の根本的な分からなさにむかいあい、そのどうしようもない不可解さ(非知性)への畏敬の想いをはぐくむところから、生まれるものだ。だがこうした「変装した宗教」は、いきなり世界を解明し、文明の行く末を説いてみせる。はじらいもなく、答えまでだす。

 

初期講義でハイデガーは、こうした時代傾向を、「世界観」とか「人生に役立つ知恵」という言い方で、何度も言及し、批判的に検討する。そして、そうした「変装した宗教」という安直な解答装置にたいするアンチテーゼとして、解答ではなく、むしろ<問うこと>や、問い手自身の<自己の変容>や<精神の革新>を前提にするような思索の道こそ、なにより不可欠であると、考えた。

 

 

 

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

 

 

考えれば考えるほどわからないことも出てくる。やってみればやってみるほど上手くできな自分もわかってくる。そこでまたいっぱいいっぱい考える。考えてるつもりになっているだけかもしれないけど、それでも、人の話に乗っかって仮の安心に乗っかってるより全然ましなんだ。

 

問うのも自分。

 

あの人はこう言っている。いや、こっちの人はこう言っている。

 

じゃーキミはどう思うのか?

どんなふうに思い、どんなふうに考えるのか?

 

決まった答えなんかない。模範解答的なものじゃなくていい。そんなものありはしないんだ。なんだっていいじゃないか。

 

自分の人生なんだから。

 

 

目の前にあることから目を背けない

Sad eyes

 

 

目の前にある。自分が生きる意味。自分に足りないもの。自分の幸せ。それらは全部自分の目の前にあるんだ。遠くばかりを見ていると自分が見えなくなる。

 

自分の目の前にあることから逃げ出さない。そこに問題意識や意味を見出していく。

自分が何のためにそれをやるのか?自分はなんの為に生きるのか?

 

100%目の前にある。

 

でも、上手くいかない時。どうしたらいいかわからない時。何がなんだかわからないよって時。何の意味があるんだよって思えてくる。僕も同じ。自分は何をするべきなのか、何をしたらいいのかわからない時が沢山あるし、頭でわかっていても出来ない時も沢山ある。どうすればいいのかわからない時ほどイライラすることはないよね。

 

そういう時ほど、こんなことしていても意味がないような気がしてくる。意味なんかないんだから何をやってもいいんじゃないかって拗ねてしまったり、お酒を飲んでグチグチ言ってしまうこともある。

 

逃げ出したくなるんだよね。

 

そういう時ほど自分を見せつけられる。出来ない自分。やらない自分。甘ったれな自分。嫌だな。意味なんてないよ。オレには出来ないよ。なんてグチグチ言って嫌な思いをしている時って、ダメな自分が見えるから嫌なんだ。

 

でもねそこで立ち止まってよく考えてみる。自分を見させてもらういい機会。

 

自分はどうしたかったのか?どんな景色が見たかったのか?本当に自分に出来ないことなんだろうか?甘えてるだけなんじゃないか?無駄にビビってるだけなんじゃないか?そういうことを考えて、色々な角度から自分を見てみる。そうするとやっぱり自分がやりたいこと、やらなければならないこと、出来ることが目の前にあることがわかるんだよね。

 

どうせ意味なんかないんだ。

 

だったらキミはどんな意味を持ってそれをやるのか?

 

それは目の前にあるよ。

 

意味は自分で作るもの

Hands

 

 

意味は自分で作る。自分で大事にするものは何なのかは自分次第。

 

そんなことをして何の意味があるのか?

自分はなんのために生きているのか?自分は何でこんなことをしているのか?

 

意味なんてないんだよ。世の中で起きることに意味なんてない。

目の前に起きることには意味なんかないんだよ。

 

努力したのに報われない。当然。努力に意味なんかないよ。

笑顔を向けたのに笑顔が返ってこない。当然。因果律なんてないよ。

 

なーーーーーんにもないの。

 

じゃーどうすれいいの?

 

意味は自分で作る。自分の中で何を大事にしたいのか。どこに向かっていきたいのか?それは全部自分次第なんだよね。意味なんか一切ないのだけれど、それでも自分が大事にしたいもの。捨てれないもの。教えてきてもらったこと。

 

自分で考えるんだ。自分がどうしたいか。自分の外にあるモノサシを使っても、そんなもの本当は無いものなんだ。

 

だから自分で決めるんだ。