ゆるくおもう

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答えなんか見つけなくてもいいんだよ

Question Mark, Ipswich, 13 December 2012

 

 

答えはいらない。答えはない。何か答えや、正しい生き方のような正解なんてないんだよ。いくら考えても、次から次へと、これでよいのだろうか?となる。それでいいんだ。

 

なにか正解がほしい。なにかを支えてして生きていきたい。

この生き方でよいと思えるようなものを手に入れたい。

 

そんな思いって誰にでもあると思う。楽だもんね。

 

でも、そうではなくて、考え続ける。問い続ける。キリがないじゃないかと思う、その問いの中に身を起き続ける。実はそれが自分を生きるってことなんじゃないか。自分を見つめ、自分というものを大事に生きるってことなんじゃないだろうか。

 

私たちは、「これでよいのだろうか」という根本的な問いを発することができます。この問いは、私たちの自由を保障すると同時に、終わりのない問いかけの堂々巡りを引き起こします。そして、究極的には、今の「存在」そのものを疑問視する問いとなります。しかも、この問いを発することで、私たちは、「自分の本来」という問題に直面させられるのです。「これでよいのだろうか」という問いが持つ根本的性格は、この問いの怖さを思い知らせます。けれども、同時に、私たちは、この問いを立てるとき、自由な存在としての優位をどこかで感じています。現状に呑み込まれてしまってはいけないのだ、現状を変える力があるのだ、現状に甘んじてはいけないのだ、というように、私たちはこの問いを立てることで、自分の可能性と力を信じているのです。非常に苦しいなかで、「これでよいのだろうか」と自分自身に問いかける。そのとき、人は優位に立っている。ハイデガーのこの考えには、徹底的に問うという作業にたいする確信と、生きることへの強い意志が感じられます。私たちは、存在論というかたちで自分の存在を根本から問題にできるからこそ、存在するものとして優位に立っているのです。では、このときの優位とはなんでしょうか。問題に決着をつけることではない、とハイデガーは言います。そうではない、「途上にあること」を真に受けとめることだ。途上というのは、答えのない問いを立てることです。問いに答えを見つけることではなく、自分をオープンにしておくこと、可能であることを忘れないでおくことです。「途上にあること」を解放して、自分を開いたとき、「根本的な疑い」が生じる。なにか確定的なことがあり、正解が見つかるという態度を完全にすてるわけです。

 

 

 

 何か安心できるようなものが見つかるわけじゃない。

これだけやっておけばもう何も必要ないということでもない。

 

問い続ける。その中に居続ける。そこから逃げ出したくなることもあるけれど、また戻ってくる。どうせ答えなどないのだから。答えがないのだから問う。

 

安心というものは外にはないよ。光というものは外にはないよ。

大事なものはどこか遠くにあるものではないんだ。

 

 

光を求めて探していたけれど、光は「ここ」にあるということ。

 

遠くまで行かないと見つからないのかもしれないけど。