ゆるくおもう

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自分が反知性主義だと気がついた

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とっても恥ずかしいことなんだけれど、昨日の晩に自分が反知性主義に陥っていることに気がついた。自分はそうじゃないと思っていたのがすでに反知性主義なのかもしれない。

 

昨日、ゴロゴロしながら読んで、あれ?っとまず思った所。

 

人間は、素朴な自己であってはならず、知恵を磨き、学習を積んで、教養を高め、共同社会と自然的世界のなかの敷衍の法則を摂取し、あるいはそれに自分を従わせ、自己を、どこにでも通用する普遍性をもった人間へと教育してゆかねばならないということになる。

ヘーゲルは、教養を積むことを、素朴な自己が失われてゆくという意味で、自己疎外と呼んだ。しかし、そうした自己疎外ないし自己超克は、普遍性へとたかまってゆく精神の発展の必然の行程として、自己形成の厳しい鍛錬の過程を、必須で不可避の意義を担ったものとして捉えたということを意味する。ヘーゲルに先立つシェリング以来、あるいはフィヒテ以来、早くから、人間的自我や精神は、無活動の状態にとどまるのではなく、むしろ、対立物や困難を克服して、それを自分の自己実現の過程のなかに組み入れてゆく運動と発展の主体と捉えられていた。換言すれば、人間的自我や精神は、対象的世界のなかへと自己の活動を客観化して、そこにみずからの活動成果を刻み残すという仕方以外には、真には存在することができず、さもなければ、自己の実在性の証を立てることができないものと見なされたのである。つまり、素朴な自己の主観的なあり方のうちに眠りこんでいるのではなく、それを否定して、むしろ、自己の活動を客観化して外へと表現し、客観的成果を打ち立てるという否定の作業を通じてのみ、自己や精神は、顕在的にその実在性を確立しうるというわけである。

 

自己を見つめる (放送大学叢書 6)

自己を見つめる (放送大学叢書 6)

 

 「自己を見つめる」という本だけあって手厳しい。正直、僕は仕事なんかしていても、この人なに言ってるの?ちが~う!!と内心思っていたりというか、思いまくり。とくに部下とかにはよく思う。それは自分の主観だけで判断してるっていうか、固定化されているというか、世界にたいして目も耳も閉ざしていることになると思う。僕が言葉にするのは少し難しい感覚なのだけれど、人々の中で耳と目を開き、主観的な自分と重ねあわせていく。そんなイメージだろうか。それが世界に開けていくってことなんじゃないのかなって思う。色んな人から色んなこと言われてイラっとくるし、ちがーう!効率わるーい!とか、ちがーう!俺の上司はそんなこと言ってなーい!ではなくて、自分の中に取り込んでいく。余計に意味がわからなくなった気もする。

 

 

 

そんなことを思いながら、ふと内田樹先生って若い頃どんな感じだったっけ?と思い、Googleのイメージ検索で「内田樹」を探していたら、たまたまこんな記事を見つけた。

 

 

irorio.jp

 

佐藤氏はその中で「反知性主義」という分析用語を使っている。言葉の社会学的定義は「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのはその物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動を強要する」からだという。

 

シンクロニシティとはこのことかと言わんばかりのピンポイント。まさに私のことではないだろうかとう記事に目がついた。正直、自分と他者との関係性なんて目もあてられないというか直視にたえられるようなもんじゃない。自分が沢山の人と一番過ごしているのが職場なんだけれど、利害関係のある集団の中で信頼関係なんてあるわけないじゃん。カーッペ!!という考え方があるので、ぶっちゃけ直視できない。そんな考え方してると、目も耳も閉ざされて当たり前かもしれない。たぶん人間的な関係性っていうものが築けていないのではないだろうか。そして言い訳だけれども、私はその人間的な関係性の築き方がわからない。

 

 

 

続いては凹みながらTwitterを眺めていたら。これ。

 

blogos.com

 

東京新聞は最も左翼的な新聞だとわしは思っているが、だからこそ購読している。

この感覚が今の右派・左派のどちらにもない。

「自分の見たい情報しか見たくない」というバランス感覚の狂った、そしてストレス耐性の低い連中ばっかりになってしまったのだ。

 

 

ふーん。よしりんか。なんか右っぽくないこと言ってそうだな読んでみようと思ったら、さらに凹まされた。また俺のことが書いてある。また反知性主義を戒めることが書いてある。と。読書もネットも人間関係も食べ物もなんでもかんでも自分に都合の良いものしか選んでいないし、僕もストレス耐性はたぶんものすごく低い。やっぱり俺のことだと思う。

 

という感じで、三段攻めにあい突如として自分が反知性主義に陥っていることに気付かされた。どうやって生きていけばいいのかなー?という感じではあるけれど、ぼんやりではあるけれど、成熟した人間にはなりたい。成熟した人間っていうのはどういう人間なのかをしっかりと考える必要があるなと思った年末でした。

 

一年の終わりに唐突ではあるけれど、よい贈り物をもらえた気がする。