ゆるくおもう

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安っぽい答えなんか捨てちゃえばいいじゃない

Time to think

 

 

インスタントな答えに乗っかっても安心なんか出来ないよね。

色々な人の考えや、色々な人の姿を見て自分自身で考える。人の話に乗っかるだけじゃわからないよ。美味しい食べ物の写真を眺めていても、その食べ物の味も作りかたもわからないじゃない。

 

でも不安だよね。世の中はこうです。あなたはこうです。こうしておけばこうなります。そういう言葉って安心出来るような気もする。不安なら尚更だ。

 

でもさ、それでもやっぱり不安じゃない?嘘っぱちに乗っかってるような気がしない?だって嘘っぱちなんだよ。何でかって?自分の解答じゃないからなんだ。

 

問うことをやめているから。

 

敗戦後の危機と混迷と不安がただよう時代。「西洋の没落」が語られ、時代診断は陰鬱をきわめる。そこで、民衆の不安心理にたくみにとりいる無数の対処療法や、いかにも自信たっぷりに決定性を印象付ける<最終解答>が、「世界観」の体裁をとりながらあふれ出ていた。K・ブリはこうした時代兆候を、「変装した宗教」となづけている。『存在と時間』発刊の二年前のことである(でもなんだか現代日本と似ている)。たとえば、無意識と深層心理学、民族自決、「聖なるもの」(R・オットー)、あるいはオカルティズムや菜食主義など。それなりに魅力的だが、安直な最終解答や治療法が乱舞する。空手形をばんばん発行するわけだ。それを読めば、それをすれば、すぐにその身のままで最終解脱にいたる。永遠の平安がえられる。そんな風潮が蔓延していた。ほんとうの宗教性は、世界の根本的な分からなさにむかいあい、そのどうしようもない不可解さ(非知性)への畏敬の想いをはぐくむところから、生まれるものだ。だがこうした「変装した宗教」は、いきなり世界を解明し、文明の行く末を説いてみせる。はじらいもなく、答えまでだす。

 

初期講義でハイデガーは、こうした時代傾向を、「世界観」とか「人生に役立つ知恵」という言い方で、何度も言及し、批判的に検討する。そして、そうした「変装した宗教」という安直な解答装置にたいするアンチテーゼとして、解答ではなく、むしろ<問うこと>や、問い手自身の<自己の変容>や<精神の革新>を前提にするような思索の道こそ、なにより不可欠であると、考えた。

 

 

 

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

 

 

考えれば考えるほどわからないことも出てくる。やってみればやってみるほど上手くできな自分もわかってくる。そこでまたいっぱいいっぱい考える。考えてるつもりになっているだけかもしれないけど、それでも、人の話に乗っかって仮の安心に乗っかってるより全然ましなんだ。

 

問うのも自分。

 

あの人はこう言っている。いや、こっちの人はこう言っている。

 

じゃーキミはどう思うのか?

どんなふうに思い、どんなふうに考えるのか?

 

決まった答えなんかない。模範解答的なものじゃなくていい。そんなものありはしないんだ。なんだっていいじゃないか。

 

自分の人生なんだから。