ゆるくおもう

仕事×自分 読書×自分 日常×自分

そのままでいてみる

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気力がわかない。やる気がでない。

別にそのままで居てみてもいいんじゃないかな。

 

今までモチベーションが下がってる時は自己啓発本やら、仕事関連の本を読んでやる気を出してみたりしていたんだけど、もうそういうのはいいかなーと思った。やる気がある状態も、やる気が出ない状態もそれはそれで自分だしなって。

 

ガンガン行こうぜモードの自分も、めんどくせーーーーーな自分もそれはそれで可愛いものじゃない。こんなことをいっていると、だからダメなんだ。本気を出さなきゃダメなんだ。自分をもっといじめなければダメなんだ。とよく言われたことを思い出す。わかってる。あまりグダグダが続くようならそれはそれで良くないのかもしれない。

 

そのうち適当にやる気が出てくるのもわかってる。だってそのままのわけがないと思うんだよね。振り子のようなものだと思うから。

 

無理やり代替的な欲求を見つけ出して、それを充たそうと努力したってそれはそれでどうなんだろうという気もするしね。そもそも自分で欲求の代替を見つけてみたすなんてことは出来るのかな?今こうしてblogにグダグダと書いていることそれが代替的に欲求をみたしているのかもしれないし。自分で意識的にはやってないからな。やろうと思ってするものじゃないかもしれない。

 

放っておいたって自己否定しだすんだから、気力がわいてこない時ぐらいそのままでいてみても良いんじゃないかな。もっともっと。このままじゃ駄目だって自己否定をし続けたら疲れちゃうよ。働いているとどうしても無理矢理にでもやる気を出さなければいけないのかもしれないし、やる気なくてもやる気があるように振る舞う必要もあると思う。でも多少は別に良いんじゃないの。

 

やる気がでない自分をボーッと眺めるのも面白いもんだよ。

答えさがしの弊害

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答えさがしは行動することを阻害し経験を奪い可能性を閉ざす。

 

インターネットで検索すると、色々な【答え】のようなものが見つかるね。

書店にいけばビジネス関連の棚に【こうすれば良い】的なものが沢山ある。

たしかに、あぁなるほどね。そうかもしれないなと思うことが山ほど書かれている。

 

でも、僕はそれ知りません。

 

世の中には傾向性やパターン的な物の見方があるし、実際その通りなのかもしれない。

でも、例えば【人生こうやれば上手くいきます】という本があったとする、その本の作者を構成してるものと、僕自身を構成してるものは違う。その作者はそれで良かったのかもしれないけれど僕は違う。生まれも、親も、学歴も、仕事も、まわりにいる人たちも、すべてが違う。

 

そのような人たちが書いた【答え】のようなもので、僕が僕の関係性の中で行動し経験することの可能性を捨てる必要は全然ないんだよね。だって僕の人生じゃない。

 

ある日、シリア難民に寄付をしたくなって国連WFPへ寄付したとする。

自分なりに出せる範囲で寄付してどうか少しでもーって思ったとする。なるほど僕の出せる範囲で寄付をするとこういう感じなのか。こういう風に感じることができるのか、おお、国連WFPからニュースペーパー届くな。だけど俺も貧乏なんだよな。もう少しで忘年会だしな。でもめっちゃ困ってそうだから少しだしておくか。どうか少しの食事にでもなりますようにって。

 

これ答え探ししてたらないよ。じゃー、国連WFPに寄付する前に答え探ししてたら僕だったらこんな言葉をエビデンスとして持ってくるかもしれない。

 

自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、
 他人によく思われたいだけの偽善者である」

「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に
対して、愛を持って接することだ」。

「日本人は他国のことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して
考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」

1981年4月マザーテレサが来日時 に黒柳徹子に言い放った言葉

 

おお、マザー・テレサがこんなこと言ってますね!!じゃー僕がやろうとしてたことは間違いなんだな。じゃーやめておこう。だってあの超有名な愛の化身のマザー・テレサ様が仰っているんだから間違いないです!って。たしかにマザー・テレサ間違っていないんだと思う。マザー・テレサの方が僕よりもはるかに思考しているし、行動のレベルも桁違いだと思う。同じ人生を歩んで同じ経験をしていたら、同じ【じぶんなりのこたえ】になるのだと思う。でも僕はマザー・テレサじゃないし知らない。

 

もちろん自分自身の行動に100%の確信もないし、たぶんマザー・テレサが言ってることのほうが正しいことに近いんだろうな、という気もする。でもそれはそれで心にとどめておけばいい。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。

 

でもね、他人の言葉で自分が行動することをやめてしまうと、なーんにも出来なくなっちゃうんだよ。どんなことにでも間違っているというエビデンスは持ってこれる。他人の言葉で未知な経験を捨てることは人生大損してると思う。だから自分でピンときたことはやってみるといいと思うんだ。痛い目をみることの方が多いけれど、それはそれでご愛嬌。

 

子供のころは色んなことを試したでしょ。そんなことしても何にもならないよって言われながらも。僕なんかは醤油とマヨネーズを混ぜて冷凍庫に入れておいたら何か生まれるんじゃないかってずーっと観察してたことがある。どうにもならなかったけどね!!でも楽しさは知れたな。

 

 

自立の大切さ

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幸せの感じ方というのは、その人の自立ぐあいによって変化するよね。

 

世の中の成熟した大人たちが何で自立しろ自立しろっていうのか?

手助けするのが面倒臭いから。フォローしきれないから。

そんな感じに思ってるかもしれないね。本当にそうだろうか?


もっと言うと、生まれた環境が悪い、とか、社会が悪いとかとか・・・。


それ勿体無いね。損してるかもしれないね。


他者や環境へ期待すればするほど、期待通りに行かないことのほうが多くなる。

他者への期待が大きければ大きいほど、幸せ度数は下がっていくのさ。


ようは甘えん坊さんってことなんだ。


自分の子供の頃を思い出してみたり、まわりの甘えん坊さんをよ~~~く見てみると
一つの共通点のようなものが見えてくるよ。


注目を集めようとする。


そうなの。他者からの注目を集めようと色んなことをやるんだよね。


これが何か良い成績をとったり、努力してみたりとプラスの方向なら、まだ良いかなと
も思えるんだけど、成果をだしたり、努力するのった面倒くさいじゃん?

一番手っ取り早いことってなんだろう。


失敗すること


そう、失敗することなんだ。一番簡単だもんね。


これって、みずから失敗したくて失敗してるってことだよ。


だけど、これって一概に悪いことだとは言えないんだよね。
失敗できる環境があるってことだから。助けてくれる人がいるってことだから。


でもやっぱり自分自身でも幸せ感じたいじゃん。


子供のままでは幸せを感じることが難しいんだ。
だから自立しましょうねってことなんだよね。


話がながくなるから続きは次回。


グッバイ。

部下がなかなか成長しない そんなアタナに 部下の認識を変える方法

http://www.flickr.com/photos/45940879@N04/8108347844

photo by Kalexanderson

 

「私は〇〇だから出来ません」

「あの人は〇〇だからです」

 

よく部下からこんな弱音が出てくる。中途採用が当たり前みたいな中小企業では、同期の数も、先輩の経験年数なんかも点でバラバラ。アルバイトから社員昇格したり、社会人経験が少なかったりすると、今まで一緒にやってた同期がいきなり伸びた!とか、どんくさかった先輩が気づけば管理職なっていた!なんていう「出来るようになる」っていうロールモデルを見ることが少ないから難しい。

 

自分には簡単だと思えることも、部下は物凄く難しいことと感じてる

こんなに簡単なことで何で悩んでいるんだろう?

すぐに終わることなのに何故こんなに時間がかかるのだろう?

 

ある。あるよ。よくある。物凄く思う。

 

思い出して欲しい。自分が新入社員だった頃を。社内メールを出すのもオロオロ。早くやれ!って言われて内心では「そんなこと出来るかよファック!!」とか、「うぜー。マジうぜー。」って思っていた頃もあったよね。

 

アナタから見ると物凄く簡単なことも、部下はとっても難しいここと「認識」しているんだよね。もしくは「そんなことして何の意味があるんだよ!」なんていう、思い込みがあったり。

 

本当にそうなの?色んな視点から考えるきっかけを

例えば、「僕には根気がないので何事も長続きしなくて・・・。」なんて思ってる部下がいるとするじゃないですか。

 

彼は麻雀が趣味。そんな彼です。

 

私「そういえば麻雀が趣味なんだよね?どれくらい続けてるの?」

彼「学生時代からなので、かれこれ10年位になりますね。」

私「ほら。続けてることあるじゃん。」

彼「そういえばそうですね(笑)」

 

大事なのは質問の仕方とかじゃないです。

 

お互いにレッテル張りをしない。これが一番大事だと思うんですね。

レッテル張りをしないってことは、「答えを出さない」ってことです。簡単にいうと、アイツはバカだから無理!ってこっちも簡単に答えを出さない。相手にもレッテル張りをさせないってこと。

 

これをコツコツと続けていくことで、部下の認知も変化していくし、色々な視点から物事を見れるようになるんですね。

 

「出来ない」と思ったいたことも「努力と工夫をすれば出来る」

 

それを知ってもらう。コーチングは難しい。メンタリングは難しい。

そんなことはないと思う。自分自身にも答えを出さない。それだけです。

 

 

 

手にとるようにNLPがわかる本

手にとるようにNLPがわかる本

 

 

人に教えるって大変だよね

http://www.flickr.com/photos/23515014@N04/3350505399

photo by Fabio Trifoni

部下育成の記事を読んで思う所があったので。

「人に教える」ってことでボクが大事に思っていること。いや、目指している所といった方がいいのかもしれない。物凄く難しくて自分でもよくわかっていないのだけれど。

 

 

どこにいっても最低限は「生きていける」ようになってもらいた

これは集団の中で上手くやっていけるようにって意味。もちろん今の集団から外に出ても、ある程度はやっていけるようにすること。仕事にたいする基本的な考え方であったり、進め方。あと大事なのが、礼儀みたいなものだろうか。こう言ってしまうと堅苦しく感じてしまうけれど、生きていくうえで必ず必要になってくるよね。

 

例えば、すーーぐ調子にのってしまう部下にはちょっと懲らしめて、調子に乗ると痛い目をみるんだよって教えてあげたり、自分だけで仕事をしているんじゃないんだよとか、人として当たり前のこと。これ大事だと思ってる。

 

上手く使うことしか考えていない人が教えてくれないことだよ。

 

自分で考えるようになってもらいたい

やっぱり人生は自分のもの。自分で感じて、自分で考える。これが凄く大事だと思う。でも、難しい。怒りすぎても褒めすぎてもダメ。よくあるでしょ。「怒る派」とか、いやいや「褒める派」ですよ的な。

 

どっちかが正解だなんてことあるわけない。

 

その人の性格であったり、状況であったり様々だと思う。もちろんイライラしてしまう時もある。上手く使いたい時もある。でも、一番大事なのは自分の中でどこへ向かいたいのか。部下にロボットのように指示通りに動いて欲しいのか、自分で考えられるようになって欲しいのか。

 

 

 

さてさて、今日も頑張ってくるかな。

 

頑張れないなら のんびり続ければいい

http://www.flickr.com/photos/8047705@N02/5668841148

photo by LifeSupercharger

この何日か風邪をひいてました。こんばんは。お久しぶりです。

 

【のんびり続ける】

 

風邪をひいてゴロゴロ。不意に思ったんです。何気にサボってる感もあるなって。

体調が悪いと気分も下降線。モンモンとしなあらアーデモナイコーデモナイ。

 

最近いまいちやる気がでないよな。将来のこととか考えて不安。

現状のことを考えて不満。こんなことでいいのかな。そんな感じ。

 

本当に急ぐ必要があるのか?

不安にかられると、もっともっと頑張らなくちゃ。もっともっと気合いを入れなくちゃ。いますぐお金を稼がなくちゃ。いますぐ出世しなくちゃ。

 

いますぐ正解をださなければ。そんな気持ちになってくる。

 

そうなるとどうしたって自分が行きたい方向もわからなくなってくるし、流れにのまれてしまうよね。何かに急き立てられるような感じと言えばいいのかな。

 

誰よりも早く。ショートカットして。攻略本を読んで。

 

でもさ、そんなに急いだら続かないよね。

 

コツコツ続ければいいんだよ

時々サボりたくもなる。頭にくることもあれば、悲しいこともある。

モチロン、自分の思った通りに出来ることなんて滅多にない。

 

でも、それでいいじゃん。

 

大事なのは続けること。頑張りすぎたり、自分を責めすぎたり、頭にきすぎたり、悲しすぎたりしてポキッて折れちゃうより全然良い。

 

僕らはスーパーマンでも孫悟空でもなんでもない。

 

だから自分に出来る範囲で。折れずに諦めずに、少しずつ少しずつ進んでいけばいい。

 

 

くらべないのではなくて、くれべられないんだよね

Compare...

 

 

比べない。そうではなくて、比べられない。本当はね。

 

自分と他人を比べてはいけないって話、誰でも耳にしたことがあると思う。

 

自分と他人を比較する。時にはライバル関係になって競いあったりもする。

それはそれで通る道なのかもしれない。でもそれって本当のところではないんだ。

 

僕も人と競い合ったりすると楽な質。

 

少し前まで同期の同僚が何人も居た。誰かがああ言えば、自分はこう言う。

僕がこうやれば、誰かがああやる。今思えば、たいして興味のないことでも張り合う仲間が居たからこそ、考えさせられたのだと思う。それはそれで良いこと。

 

でもそれって他律的なんだよね。

 

それに気がついて自分にガッカリしている今日この頃。

 

そんな愚痴は置いておくことにする。

 

くらべないのではなくて、くらべられない。どういうことだろう?

 

お金の量を比べたり。点数を比べたり。友達の数を比べたり。家を服を・・・。きりが無いね。くらべることってきりがない。

 

でもさ、今目の前にあること。その一瞬一瞬が完全にオリジナル。一回きりの出来事だったら?くらべようがないと思わない?無常なんていうと、なんだかシンミリというか、ネガティブな感じ。でも、新たなものが生まれているということでもあるし、その一回一回が二度とない本物。オリジナル。これ以上ない。

 

この一瞬が勝ちも負けもない。優劣もない。善悪もない。今目の前。今この自分が見ていること感じていることそのものが、絶対的に平等。

 

つまり、くらべようがないんだよ。

 

そうは言っても、日常的にそういう感覚で生きるって無理。悟れちゃう。

 

じゃーどうやって生きていくのかと考える。

もう一つの視点として自分の中に持っておくべきなんじゃないかと思う。

どーしたって、現代社会で生活をしていれば競争させられる。そこから完全に降りてしまうことは出来ない。例え出来たとしても、なんかそれちゃっと違うんじゃねーの感もあるし。

 

だったら、自分には完全には出来ないし、思えないのだけれど、本当は違う。自分の目にはそのようにしか見えないのだけれども、本当の所は違うのである。そういう目線。本当の所へ繋がっている通路。そういう「もう一つの視点」というかたちで、自分や世間というものを見ることが出来るようになることが大事なのではないかと思うんだ。

 

くらべてしまう自分がいる。だけど本当は、くらべようがないんだよ。