高いも低いも関係ないんだよね
存在の悲しみ
善き世界の居場所
善き世界の仲間たち
善き世界の豊かさ
善き世界の
アイデンティティ
六三四の上に広がる
高みへの安心感
悪しき世界は転落
悪しき世界は独りぼっち
悪しき世界は貧しさ
悪しき世界は
ノンアイデンティティ
六三四の下に広がる
低みへの不安感
何が善き世界で
何が悪しき世界なのか
バベルの塔を忘れ
善悪に翻弄されて
人間が歪んでいる
高みと低みから見える
水平線の輝き
ツリーが泣いている
海 法龍
真宗大谷派がひらいている求道会館親鸞講座に行った時に、頂いた雑誌に書かれていた言葉です。
高みに登らずにはいられない。高みに登れば怖くて仕方がない。
低いところから見ていると羨ましくて仕方がない。妬みも僻みも出てくる。
自分には関係ないなんてとても言えない。グラグラぐらぐらして怖くて仕方がない。
水平線ってのは高くても低くても見える場所。そこが輝いて見える。
高い所からでも、低いところからでも同じように輝いて見える。
そんなこと言ったら生きていけないのではないか?甘ったれたことを言ってる場合じゃないだろ。って思う人もいると思うし、ボクもそう思う時もある。
でも、自分がそういう存在だってことを忘れちゃうんだけど、忘れないようにしなければいけないのかなって思わされた。
親鸞講座で狐野 秀存先生が紹介されていた詩。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
草にすわる 八木重吉
八木重吉さんという方はクリスチャンだったらしいのだけど、この詩とブッダが苦行をやめて、草の上に座って瞑想をはじめた時のことを重ねて語っておられた。
頑張っていないボクが言うのもあれなんだけど、今のままの自分ではダメだダメだと思って、自分を変えよう変えよう。もっと高みへ登ろう登ろうとする。そうるするとわからなくなってしまうものがある。
ボクはこの八木重吉さんの詩を知ってはいたのだけれど、「草に座ればそれがわかる」のところの意味がわからなかったのだよね。
人間裸にしちまえば、皆同じようなものなのに、アイツはダメだとか、アイツは良いとかいっぱいいっぱい考えてた。やっぱりオレが間違っていたなと思わされた。誰が悪くて誰が良いとか、自分は良くてアイツだけが悪いなんてことないのだと。そう思わされることで、自分自身も許された気がした。
※TOPの写真はボクがflickrから適当に拾ってきたものです。雑誌「ザイン」には海法龍先生が撮られた写真が載っています。