ゆるくおもう

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三浦綾子さんの「光あるうちに」を読んで考えさせられたこと。自分にひきつけて考える

今読んでいる本の一つ。三浦綾子さんの「光あるうちに」をノンビリと気が向いた時にペラペラやっている。その中にこんな言葉があった。引っかかったので。

 

「はじめに神は天と地とを創造された」

聖書の第一番に書かれているのは、この言葉である。この天地、人間を創られたのが、神だというのである。

 

日本におけるドライクリーニングの創始者五十嵐健治氏は、十九歳の時にはじめて開いた聖書の冒頭にこの言葉を読み、

「ああ、この天地をつくられたのが神であったのか。この自分もまた神につくられたのであったか」

と感動し、涙にむせばれたそうである。その話を聴いて、わたしもまた感動した。

わたしは、今までに幾度もこの言葉を聖書で読んだが、涙にむせんだことは一度もなかった。(そうか、神は天地をつくられたのか)と思っただけだった。

 

深海に済む魚に、目の退化している魚があるという。目は使わなければ退化するものだ。

 

 

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

光あるうちに―道ありき第3部 信仰入門編 (新潮文庫)

 

白洋舎の創始者が冒頭の文で涙した話を聴いて、自分には目がないってことを反省された内容で考えさせられた。

 

なんとなーく考えてたり、読んでたりすると何とも思わないことって多い。というか、その時々で感動したり、感動しなかったり。つまり理解できなかったということなんだと思う。

 

どういうことかっていうと、三浦綾子さんには、白洋舎の社長がその一文で涙する理由がわからなかった。知らなかったということなんだよね。それで、自身に目がなかったと反省しておられる。

 

取りようによっては、目を使っていない者は盲目だ~的な感じにも取れるんだろうけど、そういうことが言いたいのではなくて、自分が無知であったと。自分にひきつけて考えておられるんだよね。これってなかなか出来ることではないなと思う。だって、隣で何かに感動してる人を見て、自分がアホだから感動できないんだ。反省。。もっと勉強しなければ。。と簡単には思えないよ。

 

ボクなんか、「目を使わなければ退化する」なんて書かれていたから、なに~!?そもそも人間なんて盲目ではないか!感動できる奴が偉いのか!?盲目で何が悪い!盲目な人間を救うのが神ではないのか!?カーペッ!!ってなりかけたからね。トホホ。。

 

これが人のせいってやつだね。自分悪くないもーん。的な。ボクのこと構ってくれてあたりまえでしょ?金払ってるんだからいい気分にさせろよと同じなんだよね。それじゃーあかんよと。

 

人の話を聞く時も、本を読む時も、自分のことを言っていると受け取ることが大事。

 

そう思わされました。