三浦綾子さんの「光あるうちに」を読んで考えさせられたこと。自分にひきつけて考える
今読んでいる本の一つ。三浦綾子さんの「光あるうちに」をノンビリと気が向いた時にペラペラやっている。その中にこんな言葉があった。引っかかったので。
「はじめに神は天と地とを創造された」
聖書の第一番に書かれているのは、この言葉である。この天地、人間を創られたのが、神だというのである。
日本におけるドライクリーニングの創始者五十嵐健治氏は、十九歳の時にはじめて開いた聖書の冒頭にこの言葉を読み、
「ああ、この天地をつくられたのが神であったのか。この自分もまた神につくられたのであったか」
と感動し、涙にむせばれたそうである。その話を聴いて、わたしもまた感動した。
わたしは、今までに幾度もこの言葉を聖書で読んだが、涙にむせんだことは一度もなかった。(そうか、神は天地をつくられたのか)と思っただけだった。
深海に済む魚に、目の退化している魚があるという。目は使わなければ退化するものだ。
- 作者: 三浦綾子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1982/03/01
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白洋舎の創始者が冒頭の文で涙した話を聴いて、自分には目がないってことを反省された内容で考えさせられた。
なんとなーく考えてたり、読んでたりすると何とも思わないことって多い。というか、その時々で感動したり、感動しなかったり。つまり理解できなかったということなんだと思う。
どういうことかっていうと、三浦綾子さんには、白洋舎の社長がその一文で涙する理由がわからなかった。知らなかったということなんだよね。それで、自身に目がなかったと反省しておられる。
取りようによっては、目を使っていない者は盲目だ~的な感じにも取れるんだろうけど、そういうことが言いたいのではなくて、自分が無知であったと。自分にひきつけて考えておられるんだよね。これってなかなか出来ることではないなと思う。だって、隣で何かに感動してる人を見て、自分がアホだから感動できないんだ。反省。。もっと勉強しなければ。。と簡単には思えないよ。
ボクなんか、「目を使わなければ退化する」なんて書かれていたから、なに~!?そもそも人間なんて盲目ではないか!感動できる奴が偉いのか!?盲目で何が悪い!盲目な人間を救うのが神ではないのか!?カーペッ!!ってなりかけたからね。トホホ。。
これが人のせいってやつだね。自分悪くないもーん。的な。ボクのこと構ってくれてあたりまえでしょ?金払ってるんだからいい気分にさせろよと同じなんだよね。それじゃーあかんよと。
人の話を聞く時も、本を読む時も、自分のことを言っていると受け取ることが大事。
そう思わされました。